大判例

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最高裁判所第二小法廷 昭和49年(あ)2203号 判決

主文

原判決を破棄する。

本件控訴を棄却する。

理由

検察官の上告趣意のうち判例違反をいう点について。

所論は、原判決は、被告人が無免許で普通乗用自動車を運転し、その運転継続中神奈川県公安委員会が道路標識により指定した最高速度五〇キロメートル毎時をこえる八七キロメートル毎時の速度で進行した所為につき、無免許運転の所為と速度違反の所為とは一個の行為に基づくもので、刑法五四条一項前段の観念的競合の関係にあると判示しているが、この判断は所論引用の各高等裁判所の判例に違反するというのである。

所論引用の各高等裁判所の判例(東京高裁昭和四八年(う)第一七〇六号同四九年二月二七日判決、仙台高裁秋田支部昭和四九年(う)第二三号同年六月二五日判決、東京高裁昭和四九年(う)第七九八号同年六月二六日判決)は、いずれも、無免許運転の所為とその運転継続中に行われた速度違反の所為は併合罪の関係にあると判示しており、所論のとおり、原判決は右各高等裁判所の判例と相反する判断をしたものといわなければならない。

ところで、刑法五四条一項前段にいう一個の行為とは、法的評価をはなれ構成要件的観点を捨象した自然的観察のもとで、行為者の動態が社会的見解上一個のものとの評価をうける場合をいうと解すべきである(最高裁昭和四七年(あ)第一八九六号同四九年五月二九日大法廷判決・刑集二八巻四号一一四頁)。

これを本件についてみるに、本件の事例のような、無免許で自動車を運転中、速度違反の所為をした場合において、速度違反の所為は無免許運転の継続中における一時的局所的な行為にすぎず、前記の自然的観察のもとにおいて、社会的見解上別個のものと評価すべきであって、これを一個のものとみることはできない(最高裁昭和四九年(あ)第一四三三号同年一一月二八日第二小法廷決定)。

よって、その余の上告趣意に対する判断を省略し、刑訴法四一〇条一項により原判決を破棄し、以上の当裁判所の判断と一致する第一審判決はこれを維持すべきものであって、被告人の控訴は理由がないこととなるから、同法四一三条但書、三九六条によりこれを棄却し、裁判官大塚喜一郎、同吉田豊の補足意見、裁判官岡原昌男の意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

裁判官大塚喜一郎、同吉田豊の補足意見は左のとおりである。

岡原裁判官の意見は、事実審が確定した事実関係をもとに法律をあてはめる限りにおいては、本件は、速度違反が無免許運転中における一時的局所的な行為にすぎないとはいえない事案であり、多数意見のような説明では本件を併合罪と結論づけるわけにはいかないのではあるまいかとされるが、われわれは、この点につき多数意見を補足したい。

記録によって本件の事実関係をみると、被告人は、昭和四八年一一月一二日午前一〇時ごろ、藤沢市石川字矢畑九三五の一番地所在の恩田建業作業場で作業中、雇主の恩田義一から同人の弟方までホースを取りに行ってくるよう命ぜられ、無免許で普通乗用自動車を運転し、同所から同市遠藤方面に向って進行中、道路が直線で前方の見とおしがよい地点で時速約八七キロメートルに加速して進行したところ、同日午前一〇時一五分ごろ同市遠藤三一四〇番地附近の道路において、交通取締り中の警察官に検挙された、というのである。このような事実関係からすれば、本件速度違反行為が無免許運転の継続中における一時的局所的な行為であることは明らかである。

ところで、第一審判決の認定した罪となるべき事実は、被告人が(一)昭和四八年一一月一二日午前一〇時一五分ごろ、藤沢市遠藤三一四〇番地附近道路において無免許で普通乗用自動車を運転し、(二)前記日時・場所において前記車両を運転中、制限速度を超過する速度で進行したというものであり、右認定事実を文字どおり形式的に理解するとすれば、無免許運転を速度違反とともに一時点一場所における行為であると認定しているようにみられないわけではないから、右事実認定は、冒頭掲記の事実関係に則して、速度違反が無免許運転継続中における一時的局所的な行為であったものと正確に判示することが望ましい。しかし、多発する道路交通法違反及びこれに関連する過失致死傷事件の迅速処理が要請されている第一審裁判所の実務においては、本件第一審判決の罪となるべき事実のように判示されている場合が見うけられ、このような場合であっても無免許運転を一時点一場所における運転行為に限定して認定している趣旨ではなく、時間的場所的に継続した運転行為を意味するものと理解され、これを前提として罪数判断がなされているのである。

多数意見は、右のような裁判実務に対する理解を前提として、本件速度違反の所為は、無免許運転継続中における一時的局所的な行為にすぎないとしたものであって、この点に関する岡原裁判官の意見は当を得ないものであると考える。

裁判官岡原昌男の意見は次のとおりである。

罪数に関する私の考え方は、多数意見引用の酒酔い運転と業務上過失致死についての昭和四九年五月二九日大法廷判決において、反対意見として述べた通りである。

本件について多数意見は、「本件の事例のような、無免許で自動車を運転中、速度違反の所為をした場合において、速度違反の所為は無免許運転の継続中における一時的局所的な行為にすぎず、前記の自然的観察のもとにおいて、社会的見解上別個のものと評価すべきであって、これを一個のものとみることはできない。」とするが、それでは無免許運転の最初から猛スピードを出した場合には一時的局所的な行為にすぎないとはいえないことになるのであるから、当然一所為と見ることになるのであろうか。また、本件犯罪事実は事実審の確定するところによれば、(一)昭和四八年一一月一二日午前一〇時一五分ごろ藤沢市遠藤三一四〇番地附近道路において無免許で自動車を運転し、(二)前記日時場所において、前記車両を運転中制限速度超過運転をしたというのであり、当裁判所の判断もこれに一致するというのであるから、少なくとも右認定事実をもととして法律をあてはめる限りにおいては、速度違反が無免許運転中における一時的局所的な行為にすぎないとはいえない事案なのである。従って多数意見のような説明では本件を併合罪と結論づけるわけにはいかないのであるまいか。

前記大法廷判決の反対意見において、私は、観念的競合の一個の行為は、第一次的には自然的観察において社会的に単一な行為を意味するものと考えると言ったのは、逆から言えば、自然的社会的に単一と見られないものは一個の行為とはなり得ないということなのである。然し、同判決の多数意見の如く、自然的観察において社会的に単一と評価されるものをすべて直ちに一所為とするのではなくて、そこに構成要件の重要部分の重なり合いを要するとしたのは、もしその制約要素を働かせなければ、一所為とされる範囲が無制限に拡がり、われわれの法感覚から許し難い結論になる場合があることを恐れたからである。同判決の多数意見が「行為者の動態が社会的見解上一個のものとの評価をうける場合」を一個の行為とするのは、前記の社会的見解評価が右の制約的作用を果す限りにおいては概ね是認し得ると思うが、他面、行為ではなくて、行為者の動態が一個であれば足りるとの表現からすれば、場合によっては多種多様の行為が一つの動態との社会的評価をうける場合のあり得ることを考えると、一行為の範囲を余りにも拡げ過ぎて、われわれの法感情に合致しなくなりかねないことのあるのを否めないと考えるのである。

また、犯罪行為が一つの社会事象であって、これに対して社会的評価をする場合に、法律的観点からの観察をしてはいけないというのも無理な話で、社会的綜合的評価というものの中には、必然的に、あるいは無意識的に法的評価も入り込んで来るべき性質のものであるのみならず、その法的評価も入っていてこそ、そこにいう社会的評価がわれわれの法意識法感情に合致し、罪数問題についても常識的な結論に結びつくものであろうと考えるのである。

ともあれ、私は無免許運転中に速度違反をしたという事件においては、運転行為はまさしく共通であって、両方の犯罪とも運転という行為がなければ成立しないことは勿論であり、しかもその行為の外形を自然的に観察すれば、無免許での速度違反における運転行為は一個の行為と見るの外なく、また法的評価を離れれば社会的見解上も二つに分けて考えるのは不自然であると思うのである。またもし、多数意見のいう社会的見解評価という意味が、無免許運転と速度違反運転とが、何かしら本質的に異なったものがあるということであれば、それはとりもなおさず法的評価を加えているからに外ならないと見られてもやむを得ないこととなるであろう。

無免許運転の距離、時間が長くて、速度違反はそのうちの一部である場合には、その点に着目して本件多数意見のように立論することも一つの考え方ではあるが、本件認定事実の如く、違反の時間と場所が完全に一致する場合にはその説明がつかない。以上述べたところにより、本件原判決が、前記大法廷判決を引用しつつ、これに則って本件を観念的競合としたのは、その大法廷判決を誤解したものとは言い難く、その思考過程にも誤りはないものといわなければならない。言い換えれば、前記の大法廷判決の多数意見が犯罪の個数について説くところが、あまりに抽象的に過ぎ、また理論としてもすっきりしないところがあるために、その解釈が多岐に別れ下級裁判所を惑わせているのではなかろうか。

そもそも、無免許運転の犯罪は無免許の事実と運転行為という二つの構成要件から成る犯罪であるが、一方速度違反について言えば、制限内速度の運転は犯罪にならないのであって、制限速度を超過する運転方法が本質つまり構成要件の重点なのである。高速度ではあるが運転にはならないということはあり得ない。即ち速度違反における運転そのものは、運転がなければ速度違反も性質上あり得ないという消極的な意味をもつに過ぎず構成要件の重点ではない。そこで、この二つの犯罪は運転という行為は共通であり自然的観察においては外形上完全に重なり合っているが、それぞれの違反について、構成要件の重要部分の重なり合いを欠くという意味において別個の行為であり犯罪は別々に成立し、観念的競合における一所為にはならないのである、と、私は考える。

したがって、本件を併合罪とする点においては多数意見と結論を同じくするが、理論構成が違っているわけである。私の考え方の詳細については前記大法廷判決参照。

(裁判長裁判官 吉田 豊 裁判官 岡原昌男 裁判官 小川信雄 裁判官 大塚喜一郎)

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